「性/聖/sayなるソーズビー」I Hate, I Love by Soesbe


常日頃、トイレに入ると小便を致しながらこちらを二度見してくる殿方。
女性トイレに入ったと勘違いし、慌てて出て行く人も。そりゃそうよね。

髪の短かった生い立ちも、全学年からは「オカマ」「オネエ」と散々笑われた。
父からは米人の頻出する「man up!(男らしくなれ)」とよく叱られた。ならねー。

祖父からは「You need an American muscle.(お前にはアメリカンマッスルが必要だ)」と訳わからんことを言わてきた。いらねー。

「オネエ」「オカマ」「そっち」「こっち」
みんな好き勝手言ってくれていたのに、人が髪を長くした途端にもはや触れてはいけないと思うのか、お含みおきプンプンに話しかけてくる。

デリケートな話題だとわかっていのるなら、なぜ今までは言葉を選ばずに人のことを笑えたのでしょうか。
反対に本人は慣れちゃって今や自虐してるのに(笑)タイミングが悪い…

テレビにゲスト出演した際には打ち合わせでディレクターから
「聞いていいのかわかりませんけどLGBTのどれなんですか?」との質問が。
「自分自身でも不明だし、人と付き合ったことがないから暫定とかできないし、
もはや意味わかんないから保留です!あえてその旨をテレビで話してもいいと思いますよ。自分をどこかに当てはめたくて悩んでる人は沢山いるので。」
と言ったら
「いや、テレビ的にはLGBTは笑いにしずらくて…タブーなんですよ。」とのこと。
じゃあなんで聞くのよ!!!

収録当日、楽屋に到着し台本を読むとナレーションでのソーズビー紹介文に
『天てれ出身のジェンダーレス』と表記されていた。
「トークで性別について触れられないのなら、この表記はしなくていいです。」
とお断りしておいた。間違ってはいないし、理解はするが、そう簡単な言葉で片付けられては困る。

「どうなりたいの」と言う問いに関してだがついに模範解答とも言える私の理想くんをインスタグラムで見つけた。モデルのソニーチャールトンくん。(@sonnycharlton
彼の様になりたい、なんておこがましい話ではなく彼と僕は自己表現のスタンスが近い様な気がして、最高例が見つかり嬉しかった。

普段はノーメイク、髪は伸ばしっぱなしで、上裸姿も至って普通でとても自然体。加えて女友達が多い。清潔で女装感のない具合はまさに私のモットーである。

ソニーくんを知ったのは元々好きだった若手カメラマンのデーモンベイカー(@damon_baker)の投稿。彼はNetflix話題作出演の女優・俳優をやたら捕まえては生々しくも力強い白黒写真を撮る。彼の写す汗や無駄毛、そばかすはすごく人間味があって不潔感がまるでない。
むしろ愛着の湧く写真を撮る。
彼の撮る被写体は基本的に数百万フォロワー所持者。彼もそう。
ソニーくんはまだ無名だったが、他の役者にはない風格のある写真が投稿された。
こうやって天才が天才をスターにさせるんだなあ、なんて呑気にみていたが、数ヶ月経ちふと改めてソニーくんのフォロワー数をみたところなんと全然変わっていない。
あれだけの注目人の中にポッと出ても人々は彼に関心がなかった様だ。

この事実は正直かなりキた。こんなに美しい彼でもお客は1万人にも満たない。
僕自身はSNSをかなり触ってないし、よろしくないくらいに自分のフォロワー数も把握が微妙だから数で勝負なんかはしていない。

私より有名有能でSNSはいまいち、なんて人は散々いるので、どうでもいいといえばそうなのだが…中性組ってやっぱタフよねえ。と気がついた瞬間だった。

話は変わるが、先程『ダビデ像』についての記事を読んだ。
彫刻家ミケランジェロの彫ったあの全裸パーマくんよりも前に、実はもう2体代表的な『ダビデ像』があるらしい。
しかも制作者はあのレオナルド・ダ・ヴィンチの師匠だとか。
もう2作のダヴィデは、かなり中性的な体格で股間を隠せば少女にすら見える。
三作とも共通し、グットルッキングな裸の少年が起用されているのには当時の闇深い宗教事情が関係している。

当時主流であったカトリック教では、聖職者も生涯童貞であることが必須。
女性は男を肉体で誘惑し狂わす存在=信仰の妨げとして捉えられていた。
そのため中世ヨーロッパの教会では”女性は黙すべき”と考えられていた様で、
聖歌隊には変声期前、あるいは去勢した男性が女性の様な高音を担当。
司祭の隣にも少年をおき、儀式を行う。

聖職者自身で性欲を律せればいい話だが、できない理由は女性に押し付け、女性の代わりに活動する少年達には「教え」という名目で溜まっている性欲を発散。
密かな性癖「少年愛」を自らの権限で正当化させ、目立たぬところでアレコレしていたそうな。
それを上様(教皇、政治家)達は黙認。なぜなら彼らも同様の性癖を持ち、行為に至っていた人が多かったから。

ギリシャ神話の少年愛文化に順じていたなど都合の良いことを言うてますが、結局禁欲など不可能で性欲が治らなかったんでしょ。それに、なんだかんだゲイは多い。
女性、中性はいつの世も男の馬鹿さに付き合わされてきたのねぇ。
男性による世界に教会(メディア)がなり、結果的にこの世も男性社会となっていることが実に悔しい。

私には友人になぜか美女が多く、彼女らといると大体の殿方は優しく接してくる。
そのうち彼女らと解散し1人でいると、さっきまでが夢だったかの様にどこもかしこも殿方が冷たい。社会の現実をよく噛み締めています。

しかし単独行動でももちろん優しくしてくれる男はいる。
考えてみれば私に優しくしてくださる殿方ってみんな賢く、努力家で優しい人である。
「認めてやろう」みたいに上から言ってるのではない。単純に、忙しくハッピーな人達は人を見た目で判断せず、会話から相手に合わせた関係性を構築するのがお上手って共通点があるのさ。
僕と同性だからあえて殿方を辛辣に書いてますが女も一緒よ。むしろ中性組は女の汚いものが大あい好き。表面上は優しくしますが結構知ってるもんですよぉ。

人見知りなのか性根舐め腐ってるかの違いは大体わかるさ。
オネエには第6感の強い人が多いとよくいうし、ソーズビーも「鋭いね」なんてよく褒められますが、見たまんまですよ。(外れることも全然あるよ\(^o^)/ )
不便なことも沢山あるが、中性な私だから見える人の本性や景色は沢山ある。

見た目だけでなく、声も女みたいだと言われてきた。
他人だけでなく、知人にも後ろ姿が女かと思ったと言われてきた。
言っておくが何も狙っちゃいなく、嬉しくも嫌でもなんともない。
これぞアイデンティティだよな。

総じて私は思った。
自分を長年地味に苦しめていた”中性”性は古今共通の武器なのだ。
禁欲のできない男たちを楽しませ、
女性も楽しませ、
社会の汚さを目にしながらも、
人より美味しい思いも色々できる。

見渡せば、中性の大先輩たちは芸術作品、演劇界、クラシクバレエ界、ハリウッド、日本のバラエティでも、長く語り継がれている人が多いではないか。
本人も周りも消化のできないその性(さが)は、人々に美しさの定義を悩ませ、Sexの多様性を示し、芸術の本質を問う様にして受け継がれてきた。
曖昧にされてきた核心的な内容をこれまでに無言で主張のできる人って、この世にそんなにいるでしょうか。

不便な性だが、ダビデ象のおかげで「だから」生きやすいこともあるんだと気がついた。

「オカマ」「ジェンダーレス」「LGBT」
全部不正解だが、なんとでも呼んで頂戴。私に限らず他者へのその呼び方って、
まるであなたの知性なんだよね。

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