「機械では決して置き換えられないもの」


ぼくの名前は岡崎岳(Ghaku Okazaki)。


They sayを読まれているほとんどの方々はご存知ないと思うので、軽く自己紹介からはじめます。

ぼくは東京の多摩の出身で、東京で日本画を学び、10年前にドイツに移住してきました。2018年 のハノーファーであった或る展示から画家・美術家を専業でやっています。絵を中心に彫刻、壁画・天井画などの空間を作ったりして生活しています。


「完璧主義」という言葉があります。芸事をやっていると、ぼく自身絵を描いていて、完璧主義とはいやが応にも向き合わなければなりません。 しかし、完璧主義にとらわれてしまうと、どうしても絵のいのちの部分が摘まれてしまう。作りこんで、「完璧」という一つの形にとらわれてしまうと、どうしても何かを排除してしまうわけです。だから「完璧」ほど不完全なものもないわけです。


また絵などの芸事に限らず、今の時代けっこう多くの人が自分にも他人にも完璧を求めて窮屈になっているようなところがあるのではないかな、ということです。そこらへんのところを少し詳しく書いていけたらなと思います。


毎日絵と向き合って手を入れる生活の中で、ある日ぼくは、数年前の絵に描き損じのような箇所を発見しました。 その絵はアトリエに置いてあったので、手直しすることはもちろん可能なわけです。けれどもぼくは、とりあえずはしばらくその絵をじっと観てみることにしました。すると、その今の自分から見たら描き損じと思われる箇所も含めて、絵全体が描いた当時の息遣いを宿していることに気づいたのです。 そこでぼくは思いました。「アア、こりゃあ完璧とは程遠い絵だけれど、なんとも言えない鮮烈 さを感じるな。それを今勝手な判断で加筆して、生命を摘んではいけない」と。


まあぼくの絵などもともとメチャクチャ流ですから、加筆したところで別のメチャクチャができただけではありますが、この絵との対話は、個人的にけっこう大きな学びになったわけです。もちろん絵を描く上で常にその時その時のベストを尽くしてはいるつもりですが、1、2年前の絵ですら今から見ると粗いように思えます。しかし、それはそれでいいのではないか。絵に限らず、若い時は何をするにも心焦ったりするわけですが、そういう粗いエネルギーは、どんなに丁寧な仕事をしようが筆勢に表れます。しかしそれを「粗いからどこかに不自然なところがあるのだろう」と思って無理な修正を加えたなら、それが本当に「完璧」とやらをもたらすでしょうか。 描いている本人はいつでも一所懸命にやっていますから、その時抱いている焦燥感などの感情も個人的なものに思われるわけです。しかしそんな感情も、自然がなすわざの一部だと今は思うのです。少し前に描いた絵に現れる粗さ。それは自然が若い絵描きに、生きる力として焦燥を与えたためだと、言えないこともないわけです。


もっと根本的に問い直すなら、そもそもはじめから「完璧なもの」などというとらわれをゴール に据えなかったならどうでしょうか。絵も心も生き生きしているのではないでしょうか。人の心を本当に打つものは「完璧なもの」ではなく、生きているものだと今ぼくには思えるのです。そしてもっと言ってしまうと、「完璧」であって「不変」なるものなど、きっとこの世にもあの世にもどこにも存在しない。もしも永遠なるものがあるとするなら、変化し続け、生まれて は死に、生じては滅し続ける、そんなつながりそのものなのではないでしょうか。有限なるぼくらのいのちのサイクル、心のリレーこそが、無限なのだと思えるのです。 歌は空気を震わせて、人の心を震わせて、去っていきます。人間だけでさえなく、心地いい音楽 は、卵を温める親鶏にも影響を与えるとか。もし真摯に歌われる心の歌が、たとえたった一人で も、半人にでも、伝わっていくなら、それでいいのではないしょうか。


もしそうなら、絵も人に伝わっていくことできっと永遠の一部として本当の意味を持つのではないでしょうか。画布や絵具という何百年もとうがいつかは必ず朽ちていくもの自体が大事ではなくて、描かれた絵が今生きている人の心から心へと伝わることが大切だと思うのです。だからその絵に本当に大切なのも、形の上での整合性だとか「完璧さ」などではないのでしょう。「永遠に完璧なるマスターピース」などが仮にあったとして、それは誰の心にも触れることのできない退屈な絵になるのではないでしょうか。


だからぼくは、「機械に打ち込めば完璧で正しいものができる」と信じるような、今風の考え方に抵抗を禁じ得ません。理屈の上で説明するまでもなく、ぼく自身の体が抵抗を感じてしまうのです。なぜなら、機械には心がないから。日本の柿を見たことのないドイツの人に「柿というのはこういう果物で、こんなに甘くて...」と伝えて描いてもらったら、それは彼の心を通してイメージした柿になるわけです。当然写真でとったような柿の実にはならないでしょう。しかしそれは実感を持って描き出される、彼の心で描いた未知の果物です。だからきっと、変な果物でもそれなりに甘い。電子頭脳に打ち込んだ「完璧な正解」は、食えもしないし、匂いも触れられもしない、単なるノッペリした映像に過ぎません。ここら辺を忘れてはいけないと思うのです。


AIの開発に尽力される技術者の方がいらっしゃるなら、医療などの目的があるなら素晴らしいことだと思いますが、もし機械で芸術の本質や探求ができると思っていらっしゃるのなら、他の仕事に切り替えられた方がいいのではないかと思います。人間の心に思いを巡らせたなら、機械にできることとできないことがハッキリとあるわけですから。 そしてAIやコンピューター、スマホなどに慣れ切っている人がいたなら、こう伝えたいのです。便利なものはぼくも使いますが、機械に頼るにも程度というものがあると思います。すぐに正解など分からなくてもいい。ぼくらは「完璧」でない人間であることを喜び合おうではありませんか。


ぼくは絵描きなので絵の話が多くなりましたが、今回僭越ながら言いたいことはそこら辺のことなのです。自分で描いた絵に完璧を求めて窮屈になるくらいならかわいいものですが、現実の社会で人がお互いに完璧を求めて窮屈になっていてはシャレになりません。ならいっそ、自分自身や他人に対して押し付けている前提や正義のようなものごと思い直して、時にはそんなもの、取っ払ってしまっていいのではないでしょうか。


ぼくたちには、恒久なる正解をはじき出す必要などないのですから。
一緒に歌って生きていったなら、気が楽ではありませんか。


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