不適合家族 by Shimajiri Emi


父親が死んだ。


戒名も写真もない、棺桶に入れる物すらない寂しい葬式だった。

他に参列者なんかいない葬式で、私は飛んで来た蜂の行方を追っていた。

父親のスーツ姿はあまり記憶がない。代わりに母親の制服姿は強く記憶に残っている。

あまり働かない父親と働きまくる母親。

暴力を振るう父親とお酒を浴びるように飲む母親。

そんな歪んだ家庭で育った。


ざっくりバブルの時代。世間が浮かれていた頃、ギリ東京都下の町で私は生まれた。

小学校に入学すると何故か同級生は裕福な家庭が多くて、拡大家族すぎるシルバニアファミリーのセットとか、たくさんのメンバーを従えた雛人形とか、そういうのを当たり前のように持っていた。

羨ましくて羨ましくて仕方がない。雛人形がどうしても欲しくて母親にねだると、生協で、紙粘土でできた真っ白な雛人形を買ってくれた。母親と2人で色を塗った。全然上手く塗れなかった。私の中の雛人形はずっと不格好な姿だ。シルバニアファミリーは小物だけ買ってもらった。

ちょうど『それが大事』という曲が流行っていた頃だったと思う。未だにどれが大事なのかはわかっていない。


バブルが崩壊して数年経った頃、両親は神奈川の絶賛開発中の町にマンションを買った。父親は引っ越す前の部屋に何度も私たちを連れて行った。これからどんなことが待っているのか。期待に溢れた引っ越しは楽しか った。私たち一家は浮かれていたと思う。


「普通」ということがよくわからなかったから、小学生の私はごく普通の家庭の子どもだと思っていた。このときの我が家の経済状況はわからない。両親が何を思っていたのかもわからない。もしかしたら両親は関係を修復するチャンスだと思っていたのかもしれない。

でも引っ越しして、わかりやすく両親は仲が悪くなった。バブルとかそういうことの類が原因じゃないことはわかっている。壊れたものは元には戻らなかった。


性格が歪んでいるうえに、親戚にすら人見知りしてしまう私は見知らぬ町での友達作りに苦戦していた。偉そうで性格も悪い。そもそも人に興味がない、上澄みしか見ない、信用しないという、残念なタイプの子どもだったので、クラスで1人……ということもしばしばあった。

テレビの話題が無敵だった時代。『ありがとやんした』という番組でやっていた、海パンの下のパンツを脱ぐ「パンツ大作戦」がきっかけで親友ができた。パンツで私の心をこじ開けてきた、アホな親友は今でも心の支えになってくれている。


両親はお互いにこれでもかというほど憎み合っていて、私や兄にひたすらお互いの悪口をぶつけていた。なかなかパンチの効いた両親だ。

恋愛結婚スタートでこんな地獄のようなゴールが待っているなんて……。恐ろしい話だと思う。

父親はしょっちゅう怒り狂っていて、母親はしょっちゅう泣いていた。だから私は泣かなかった。「泣いたら負け」と誰と戦っているのかはわからないが、私は謎の敵と今でも戦っている。

両親は結婚したことを心の底から後悔していて、私たちが生まれてしまったせいで離婚を諦めたのだそうだ。「子どもがいるから離婚できない」という、謎のルールに縛られた両親は、お互いを攻めながら生きていた。そんな姿を見ていた私は、「この世に愛は存在しない」と思いながら生きることになる。


きっと両親はそれどころじゃなかったのかもしれない。だから私は誕生日には1人ぼっちで泣いていることが多かった。高校生のときは寂しくて死ぬかと思った。

そこから自分の存在価値みたいなものを考え続ける負のループに陥ることになる。私は何のために存在しているのか。家族とは一体何なのか。

だから周りの人たちが羨ましくて仕方がない。恵まれている人たちにはそのうち不幸が訪れる。そうやってこの世のバランスは保たれているんだ。親友にさえもそう思っていた。

我ながら嫉妬が酷すぎる。そんなこと思ってるから誰も誕生日なんて祝ってくれないのだけど。妬んで僻んで、どんどん醜くなっていく。そしてどうしようもなく自分を嫌いになる。


もうすぐ大学を卒業するタイミングで突然家が無くなった。インターホンが鳴り続ける系のやつで。それをきっかけに両親は離婚した。その時も私は泣かなかった。勝ち負けで言うと負けたんだろうな、何かに。


私たちは急いで引っ越しをする。今度の引っ越しは楽しくなかった。さようならバブルのマンション。そこから父親と兄に会うのは10年以上も後になる。見事にバラバラになった。家族という存在は泡のように消えてしまった。

そんなわけで親戚は我々とは距離を置くようになる。当時は「この世には優しい人なんかいない」と絶望した。本当はみんな優しい人たちなのに。悲劇のヒロインを演じることでなんとかバランスを保っていた私は、信じるということを放棄していたんだと思う。


恥ずかしいことだと思っていたから、外ではそこそこ幸せな中流家庭の子どもみたいに振る舞っていた。つい最近まで。実際はどんどん絶望して諦めて壁で塞いで、生きづらかった。親が作った世界を離れて、自分が作った世界で生きるようになったら、少しだけだけど生きやすくなった。大人になればなるほど世界は広がっていく。今の私はまだ幼くて年齢と中身が合ってないけれど、それでも大人になることは素敵なことだと思う。


父親の遺品はアルバムが入った段ボール1つだけで、中にはアルバムが入っていた。家がなくなるあの瞬間、急いで詰めたのだろう。たまたま開いたページには、籠に乗せた小学生の私を担いで走る両親の姿が写っていた。3人とも笑っていて、そこにはちゃんと「家族」が写っていたのだ。もしかしたら、みんな自分以外の誰かの愛し方を知らなかっただけなのかもしれない。だから「家族」を作ることに失敗してしまっただけなのかもしれない。今ならそう思えるし、誰のことも恨んではいない。ただ家族を作るのが下手な人たちが集まってしまっただけのことだ。


この世に愛は存在してると思うし、誰かの手は温かい。誕生日を祝ってくれる人はいるし、優しい人はいっぱいいる。まだまだ私は歪んでいて、泣きそうになることも多いけど、わりと楽しく生きていることに感謝しています。

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