「ごはんのはなし」 by Shimajiri Emi

 


カツに醤油と砂糖、
その他諸々を入れた汁をたっぷりと含ませて卵でとじる。
にも拘わらず、サクサクとした食感。たまらない。
カツ丼を食べるときはテンションが上がる。酢豚も最高だ。
甘酢なんてどうしようもなく美味しい。
あんなに甘酢にまみれているのに、揚げた豚はサクサクとしている。
酢豚に白ごはん。いつまでも食べられる気がする。


私は一人でご飯を食べるのが苦手だ。
「えー、だって寂しいんだもん……」といった、かわいい理由ではない。
美味しく感じなくなるのだ。それは好きなカツ丼でも酢豚であっても。


これから矛盾している話をする。矛盾していることはわかっている。
頭では。
だって、ちょっと体重増えてきたなぁ、なんて思うのだもの。


「ご飯を食べること=生きること」。
日常の生活の中ではあまり意識していないのに、
一人でご飯を食べるときは、何故か強く考えてしまう。
「存在する価値なんてないくせに、何を生きようとしているのか」、
「私なんかのくせに、生きることに固執するなんて笑」
そうやって『私なんか』が『私』に囁いてくるのだ。
そうすると、途端にご飯が美味しく感じなくなる。
好きな食べ物第1位のナスだって、18位くらいの味にダウンしてしまう。
ちなみに17位はゴボウである。


『私なんか』というのは『私』の中に潜む大人になれなかったネガティブの塊だ。
『私なんか』は『私』の足を引っ張る存在である。
文字通り。強く。
そして暗いどこかに引っ張ろうとするのだ。
子どもの頃からずっと「自分は望まれて存在している人間ではない」、
「誰も人としての自分を必要となんかしていない」という考えが潜み続けている。

それを『私なんか』が抱えて、『私』の足に絡みついているのだ。
だから、お腹が空いて「食べる」ことがしんどく感じてしまう。
生きようとする自分を疎ましく思う。
美味しく感じないと思いつつとりあえず食べる。
お腹がいっぱいになってテンションが下がる。
「何で食べてしまったのだろうか?」
お腹が空いたから食べる、
たったそれだけの、当たり前の行為をしただけなのに自分を責めてしまう。
頭ではわかっている。
だけど心はわかってくれない。
一人でご飯を食べるということは、
私にとってかなりハードルが高い行為なのだ。


だから一人ご飯のための自炊なんて、とてつもなくしんどい。
どんなに時間をかけても、
誰かがいれば「すごいのができた!」と、
代表作として発表してもいいくらいの料理ができたって、
美味しくもなんともない。
「食べるよりも遥かに時間をかけて料理してさ、
自分を満たそうとして、明日も生きようとしている。バカみたい」。
食べながらそんなことを考えて、お腹がいっぱいになって、
どうしようもなく切ない気持ちになる。


そんな私ではあるが、誰かとご飯を食べるのは大好きだ。
それは「ご飯を食べる」ことがメインではなく、
その誰かと「話す」ことがメインだからだと思う。
ご飯はあくまでオプション扱いなのだ。
だけど、美味しい物を食べたら幸せな気持ちになるし、
いっぱい食べたいともなる。
なんとも矛盾していてわがままな話なのか。
誰かと一緒に食べるならずっと食べられるかもしれない。
ポップコーンなんて永遠に食べられるかもしれない。
ポップコーンはご飯ではないが。


いろいろと言ったけども、毎日ちゃんと食べている。
だから健康そのものである。体調の悩みは肩こりくらい。
『私』は『私なんか』の囁きに日々、抗い続けている。
「美味しく感じない」と思いながら食べ、
お腹がいっぱいになってテンションが下がる、
そんな日々を繰り返している。


ありがたいことに誰かとご飯を食べる機会は多い。
そのときは「生きる」ことなんて大袈裟なことを考えないで、
ただただ「美味しい」という感想だけを持って食べている。
美味しく食べて、お腹がいっぱいになって、
「美味しかったね」なんて言いながら笑い合ったりする。
それはなんて素晴らしいことだろうか。


私は今日もご飯を食べる。
きっと明日も食べる。
一人かもしれないし、誰かと食べるかもしれない。
カツ丼を食べるかもしれないし、酢豚は食べないかもしれない。
私は『私』を、『私なんか』を満たしてあげたいと思う。
「存在していていいんだよ」と。
満たされれば「美味しい」が増えるかもしれない。

そうやって「美味しい」と思える日々をなるべく多く送れるようになれたらと願う。

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