「必ず幸せにするから俺についてきてくれへんか?」


〜日本人夫婦が描いたカリフォルニア移住、とあるコーヒー屋さんの物語〜


香ばしいコーヒーの香りは、不思議と人の心をほどく。

立ちのぼる湯気の向こう側には、静かな喜びや懐かしい記憶がふわりと広がっている。

アメリカ・カリフォルニア州のとある街。

穏やかな陽の下、行列のできるコーヒー店が優しく佇む。

日本の焙煎文化を静かに、そして着実に根づかせたこの小さなコーヒー店には、毎日のように沢山の人が訪れる。

そして誰もが心を満たされ、笑顔で帰路に着く。


その一杯のコーヒーの背景には、ある日本人夫婦が歩んできた壮絶な10年間の物語があった。

「壮絶」とは、例えばー

6時間以上車を運転して他州へ通勤、

最低賃金以下の安い日給で365日、働き続けたこと。

ついには仕事のストレスで血便が出たことー。

信じられないようなエピソードの数々に、つい私はこう尋ねた。

「なぜ、その仕事をやめなかったのですか?」

コーヒー屋さんのご主人、だいさんはこう答えた。


「当時働いていたステーキ屋さんはホンマに大変でした。いわゆるブラック企業やったと思います。

でも、お世話になった師匠が紹介してくれた場所やったんです。契約書も師匠との約束もなかったんですが、『10年は踏ん張る』って自分に誓ったんですよね。やから、その自分との約束を守りたかったんです。」

夢を追い、挫けそうになりながらも決して諦めなかった。

コーヒー豆と真摯に向き合う、2人の人生の軌跡。

若き日本人夫婦の「幸せの一杯」に全てをかけた人生の記録である。


■ 夢の始まり、プロゴルファーへの憧れと挫折


だいさんが最初に追いかけた夢は「プロゴルファーになること」だった。

10歳からクラブを握り、高校では国体選手に選ばれた。

大学では全国30位、関西では15位という輝かしい成績を収めた。

「姉の海外留学にも影響を受け、僕もゴルフで海外へ挑戦したいって思ってたんです。だから、大学卒業してすぐカリフォルニアのゴルフ大会へ出場しに留学しました。」

だが、だいちゃん青年は自分の限界に気づいてしまう。

全米オープンの予選トーナメントに出場することになった彼。

過酷なコンディションのなか「−1」という好成績に自信を持った。

「よっしゃー!僕すごいええんちゃうの!?」

自信満々にリーダーボードを見に行った。


しかし、その自信は一瞬で打ち砕かれることとなる。

現在も大活躍であるアメリカ人選手2人の成績が掲載されていたのだが、

なんと「−12」「−14」という今までに見たことのないスコアだった。

「あ、僕には無理や。こんな成績やったら、ゴルフでお金なんて稼げるわけない。」

23歳、まだまだこれからという若き青年が夢を捨てた瞬間だった。

それでも、“アメリカで生きていきたい、挑戦したい”という情熱は消えなかった。

「僕はその時23歳で。同級生の子たちはすでに社会人1年目だったんですよ。僕、昔からすごく目立ちたがり屋で、人と違うことをするのが好きやったんです。そやから、日本に戻って普通に就職して、“友達の後輩になる”のはなんか違うなって思って。ゴルフはダメでも、なんかかっこいい人生を送りたい。そんな想いでした。」

英語も話せないし知り合いもない。


再びアメリカへ行くにはどうしたらいいのか?

悩めるだい青年に手を差し伸べてくれたのが、彼のゴルフの師匠であった。

「だい、サウス・カロライナに行かへんか?ステーキハウスのマネージャーを探している友達がおるんや。だいは経済学部出身やしビザもでるらしいから、行ってみんか?」

―「はい、いきます!なんでもやります!」

「働けるならなんでもええ、やったる!」——その一心だった。


■ 出会い、遠距離恋愛、そして「ふたり」での挑戦


移住先のサウス・カロライナは想像を絶するほど田舎であった。

「もう、言葉では言い表せへんくらい、とにかく田舎なんですよ。ホンマになんもないんです。アジア系のスーパーに行こうと思ったら、車で7時間かかるんですよ。日本での生活やカリフォルニアの留学生活とのギャップにショック受けましたね。」

定休日のないステーキハウスで週に6日、早朝から深夜遅くまで働いた。

英語も話せず、日本語が通じる人もいない。


ホームシックになんてなるわけがないと思っていた彼だったが、

「あれ、僕ホームシックやんけ!」と思ったそう。

故郷を恋しく感じるようになり、SNSを通じて当時の友達たちと繋がった。

普段の生活で見ることのなくなった、

懐かしい日本語の文字を通して精神を保っていたという。

そんな中、高校時代の「友達の友達」だったあいさんと偶然SNSで再会。

現在は都内の音楽関係の会社で働いていると知った。

可愛らしいあいさんとの他愛もないやりとりが本当に楽しかったという。

ある日、だいさんは当たって砕けろの精神で、彼女にこんなメッセージを送った。


「次日本に帰国できた時にはご飯でも行きましょうよ!」

ワクワクしながらだいさんは返信を待っていた。

ピロン。

携帯を鷲掴みしてメッセージのボタンを押す。

目に飛び込んできた返事はこうだ。

「あ、メッセージ間違えてますよ。多分、人違いだと思います。会ったことないし。」

「・・・まぁ、そらそうやんな。笑」

がらんとした部屋で1人つぶやいた。

しかし、だい青年は諦めずにアプローチ!

ついにデートの約束を取り付けた。


遠距離から始まったやりとりだったが、1年後に東京でようやく出会うことに。

何度かデートを重ね、お付き合いが始まった。

その後も遠距離恋愛で愛を育んだ2人。

遠距離恋愛は時差問題がつきまとう。

電話ができるのは奇跡のようなひとときだった。

まだ見えぬ未来への不安と寂しさがあったが、それでも、だいさんはあいさんに伝えることに決めた。

「アメリカに来てほしい、僕と結婚してください!」

交際から1年と半年が経った頃のことだった。


■ 試練続きの結婚生活、揺るがぬ10年の覚悟


2人の愛は実を結び、遂に結婚生活がスタートする。

が、なんと入籍してからも遠距離恋愛ならぬ遠距離結婚だった。

ビザの問題や生活拠点の準備など、さまざまな問題が2人を苦しめた。

しかも結婚までに実際に会えた時間は、全て合わせてもたったの3ヶ月ほどだとか。

渡米のために長年勤務した会社を退職していたあいさん。

日本で彼からの連絡を待つ間、どれほど心細かったことか。

彼を信じ、アメリカに行ける日を夢見て待っていた。

その頃、だいさんも大変な状況に巻き込まれていたという。

突然の人事異動で、ノース・カロライナの新店舗マネージャーを命じられる。


「新店舗をノース・カロライナに出すから、その新店舗のマネージャーとして働いて欲しい。」

との理由で人事異動に至ったそうだが、新店舗が建つのはなんと1年後。

そう、つまりその期間は給与が出ないということだった。

突然収入がゼロになってしまった彼は途方に暮れていた。


そして、ステーキハウスのオーナーにこう告げられる。

「勉強やと思って同じ系列の他の店舗でアルバイトしてこい。日給100ドルって伝えておくから。

他の店舗がスタッフを必要としているかは、電話して自分で聞いてくれ。あと、空き時間に新店舗の現場工事の調査も忘れるなよ。」

工事も始まっていない更地の新店舗の前で現場調査をしながら、週に何度も州をまたいで働ける他の店舗へと車を走らせた。

友達の家や、時には車で寝たりしながら、ノース・カロライナ、ジョージア、

そしてサウス・カロライナを行き来する。


食事はお店のまかないと激安のホットドッグを少しずつ食べながら、

なんとか生活を成り立たせていた。

往復のガソリン代だけで収入を上回ってしまう気もするが、

ブラック企業だとは思わなかったのか?

「ブラック企業やとは当時は思わなかったですね。経験できることは、苦しくても全部しておこうって思ってました。何より、師匠がくれたご縁やから。最低10年は踏ん張ってやろう!って自分の中で決めてたのもあると思います。」


■ 食い逃げ、裁判、疲労に血便- 結婚生活は試練の連続


1年間、死ぬ気で働いただいさん。

ようやくあいさんとアメリカで生活を共にし始めた頃、新店舗がオープンした。
だが、そこから始まったのはさらなる試練だった。

新店舗に関する投資、経営、複雑な出資者関係-

そして次第にすれ違い始めるオーナーとの価値観。

様々な問題が2人を苦しめた。

海外経験が全くなかったあいさんにとっても試練の連続だった。


アメリカ生活に馴染む前にスタートした夫婦2人でのステーキハウス勤務。

仕入れから従業員30人分の給与計算、店舗運営の全てをだいさん夫婦に任されていた。

朝9時から夜中の12時まで激務に追われる日々。

ステーキハウスがオープンしてから2週間、

なんとだいさんは14キロも痩せてしまったという。

「僕、ホンマに激務ですごく痩せてしまって。ついには血便もでたんですよ。当時は深刻に自分の状況を考える余裕もなかったから、とにかく働くことに集中してたんですけどね。今振り返って思うと、あれは相当ストレスやったんやなって思います。」


「あ、そうそう、すごいお客さんもいて。リュックとか水筒とかを置いて、『ちょっとトイレいってくる』って言ったまま帰ってこないお客さんがいて。ふとお客さんの大きなトートバックをみたら、なんと大きな石がちらっと見えたんですよ。荷物を捨てて、食い逃げされたんやって気づきました。外見たら、その人たち車に乗って逃げようとしてたんです。僕、咄嗟に追いかけていって車に向かって叫んでたんですよ。


『金払えー!』って。そしたら、アクセル全開にして僕に向かって突進してきて。運良く避けられましたけど、あれは死ぬかと思いましたね。でも僕許せなかったんですよ。犯人が走り去る時に車のナンバー覚えて、すぐに警察に電話したんです。で、犯人ちゃんと見つかって。裁判までしたんですけど、最終的にちゃんとこちらが勝ちました。でも、命の方が大事やから二度とあんな無茶はしたらいかんって思いましたね。」

度肝を抜かれるエピソードに私は唖然とし、続けてこう質問した。

「その頃にはもう永住権もお持ちでしたよね。その店舗で絶対働かないといけない理由はありましたか?何故そのお店を離れなかったのですか?」

だいさんはこう答えてくれた。


「やっぱり、10年はやり切るって決めた、意地ですかね。絶対に踏ん張るっていう、僕自身との約束です。絶対諦めない、とにかく10年は頑張ってみる。全部経験してやろう!って思ってました。でも、10年経とうとしていた頃にオーナーの会長が突然お亡くなりになったんです。そして会長が違う方に変わったんですよね。今まで働いてきた期間もホンマにしんどかったですけど、その方が経営方針を変えるということで、更に僕たちにとって厳しい環境になったんです。その出来事がキッカケで、自分たちの将来を考え直すようになりました。」

複雑そうな表情でだいさんは続ける。


「どれだけ頑張っても、結局は雇われマネージャーなわけで。仮に給与が上がっていったとしても、血便出るくらいのストレス抱えながら大切なあいちゃんと一生ここで暮らすんか?って。それやったら、自分のやりたいことをやってみてもええんちゃうかって。僕たちの人生このままでええんかな?って何度も考えましたね。」

新店舗の売り上げは着実に伸びており、聞いてびっくりするような金額を年間売上げるまでに成長していた。

日本人の「おもてなし」精神のこもった

懇切丁寧なサービスを提供していたからだ。


知らぬ人はいない、地元に愛されるステーキハウスとなっていた。

あいさんは深夜遅くまで残り、床や壁の隅々まで綺麗に雑巾で何時間も拭いた。

だいさんはどんなお客さんにも必ず笑顔で挨拶をし、

全スタッフにそれを徹底させていた。

他にはない「おもてなし」の精神がお客さんの心を掴んでいた。

また、だいさんは会社の配当金をこの年から受け取れる予定だったという。

4LDKの大きな一軒家も購入し、ようやく生活に余裕が出始める!とあいさんは心待ちにしていた。

しかし、だいさんの決意は揺るがなかった。

「10年間は踏ん張る」という自分自身との約束を果たした今、

なんとステーキハウスをすっぱりと辞める決断をした。


そしてあいさんに人生二度目の告白をする。

「あいちゃん、車売ってきた。この家も売ることにした。僕、カリフォルニアにずっと夢やったコーヒー屋さんを出そうと思う。移住したとしても、好きなものを食べたり、好きなことをしたり、そうやって楽しく過ごせるように、朝も晩も働くから。家も車も無くなるし、お金もツテもなんにもないんやけど。絶対に幸せにするから、ついてきてくれへんか?」

唖然としたあいさんの顔が、想像の目に浮かぶ。

その告白からたったの3ヶ月後―

レンタルトラックを借り、東海岸から西海岸へ、夢のカリフォルニアへと向かうことになるとは

彼女は想像もできなかったという。

“自分たちだけのコーヒー店を持つ”―

新たな夢がふたりの大きな希望となった。


■ 4LDKの一軒家から1ベッドルームのアパートへ


ビジネスの前にまずは衣食住、特に住居の確保をしなければ。

だいさんはビジネスの費用をキープするため、

一軒家ではなくアパートに住むしかないと思った。

パソコンを開いてワクワクしながら新居を検索。

しばらくしてだいさんはこう呟いた。

「ここと桁が一個違うやん・・・」

唖然としながらパソコンを眺め、結局一番安いアパートに住むことを決める。

苦渋の決断であった。カリフォルニアはアメリカ本土の中でも人気の土地であり、

住宅にかかる費用はノース・カロライナと比べると数倍の差がある。


「人が住めるような場所ではなかったんですよ、本当に。」

とMさんは語る。

「私ね、まずお部屋の中で虫をやっつける薬をつかったんですよ。で、部屋から離れて数時間後に帰ったら、床一面に大量の虫の死骸があって・・・私泣きました。わんわん泣きましたよ!こんなところで住めるわけないよって。どうやって住んでいくの?って不安になりました。」


■ペルーへのコーヒー豆修行の旅


住めば都とはよく言ったもので、

だいさん夫婦は新たな日常に慣れていった。

カリフォルニア生活も落ち着き始め、

いよいよコーヒー豆をどこから仕入れるか、という

具体的な経営展開を考えていたところ、思わぬ話が飛び込んでくる。

「だい、お前の留学時代のクラスメイトやった子が偶然うちの店にきたで。ペルー人の方と結婚して、今はペルーでコーヒー豆のバイヤーしとるんやと。」

日本でコーヒー屋さんを経営する父からの電話だった。


「僕の実家がコーヒー屋さんやったんです。手伝う機会が若い頃からあって、面白いビジネスだなってずっと思ってたんですよね。ステーキハウスで働いている時から、いつか父の店を出したいなって思ってました。カリフォルニアで実家のコーヒー屋さんを出せば、絶対に成功するって自信があったんです。


ツテも何もないからどうしようか悩んでた頃、偶然父から電話があって。23歳の時に留学してた学校のクラスメイトの子がペルーのコーヒー豆のバイヤーになったって話を聞いて『そんなタイミングいい話ある⁉︎』ってホンマにびっくりしました。これは現地まで豆の修行をしに行くしかないって思って。すぐに連絡を取り合って、現地に行くことを決めました。」

ペルーで現地のコーヒー豆農家の方々との出会い、そして彼らの手から摘まれる豆の重みを自分の手で感じた。

「現地まで日本人の友人もついてきてくれたんですよ。奇跡的に友人とのご縁があったからよかったものの、現地に自分たちだけでいっても言葉が分からないから豆を学ぶにも限界があったと思うんですよね。色んなご縁やタイミングに恵まれて、僕たちのブランド豆が決まった。そう思ってます。」


■唯一無二の焙煎コーヒー 


本気のストーリーをインパクト強くお客様に伝えたかっただいさん、

ペルーで撮った沢山の写真を、店内に大きく飾ることに決めた。

「コーヒー買いに来られる方って忙しい方も多くて。しっかりとお話しできない場合もあるなって思ったんですよ。だから、お客様に説明しなくても、その写真を見るだけで僕たちのコーヒー豆がいかにこだわり抜いたものなのか、しっかりと伝えることができると思ったんです。」

コーヒーの味を決めるのは、土や水、そして何より人の手である。


「コーヒー豆の農家さんたちって沢山の手作業での工程を経て豆を出荷するんですよね。農家さんたちの願いとして、『お客さんに一番美味しい状態で飲んで欲しい』っていう想いがあるんですよ。アメリカのコーヒー屋さんはすでに焼き上げてある豆をお渡しすることが多いんです。僕たちのこだわりは、コーヒー豆の店内注文が入ったら、そこから焼き上げてお渡しする。自分たちが美味しく焼いたコーヒー豆で、お客様も農家さんも笑顔にできる。それって、最高に幸せやなって思いました。」

カリフォルニアのオレンジカウンティエリアに位置する小さなコーヒー店。

南はサンディエゴ、北はロサンゼルス、時にはカナダからも美味しいコーヒー豆を求めて人がやってくる。

自分の好きな焼き加減で焙煎された豆は、その人だけの香りと味に。

オープンから2年が経った今も行列のできるコーヒー店として多くの人々に愛されている。


■174店舗目の奇跡、早朝5時から北へ南へ


だいさんのコーヒー店は様々なショップや飲食店が建ち並ぶ

小さな一角にひっそりと存在している。

「店舗はどうやって決めたのですか?」

その質問にだいさんはこう答えた。


「僕の勘です!というのも、不動産会社に頼らず探すことに決めたからなんです。実はこの店舗に決めるまでに173店舗見てまわりました。北はロサンゼルスから南はサンディエゴまで、朝5時に起きて探しに行きました。コーヒー屋さんがオープンするまでの間はお寿司やさんでアルバイトさせてもらってたんですが、仕事がある日は出勤前に起きて見に行ったりしてました。というのも、Webサイトに掲載されてある空き店舗情報が全てじゃないんですよね。例えば、なかなか入居が決まらない問題物件やったりする場合もあって。実際に足を運んで、店舗が空いているかどうかを自分の目で調査した方がいいって気づいたんですよね。そんな中、ついに見つけたのが今の店舗でした。駐車場もあって住宅地に近く、常に人で賑わっている。コーヒー焙煎をメインにしたかったので、店舗面積は広すぎず、ほんの少しのカフェスペースがあればいい。まさにぴったりのこの場所に出会った時はホンマに嬉しかったです。」


■ 自分が招いた失敗はストレスじゃない


かつて、だいさんは“血便が出るほど”のストレスの中で働いていた。


先の見えない未来、理不尽なクレーム、孤独。

でも、今は違う。


朝がどれだけ早くても、働く時間が長くても、だいさんはただ「楽しい」と笑う。

「ストレスを感じながら働くのって、本当にしんどいですよね。でも、自分で選んで、自分で決断して、自分の責任で失敗したことって全くストレスにならないって気づいたんです。昔のステーキハウス勤務でのストレスは、それとは違うものからくるものだったんやと思います。食い逃げされたり、車に轢かれそうになったり。」

ははは、と懐かしそうに笑う。


たしかに今も、早朝から夜遅くまで働くこともある。
時間に余裕がない日もある。
それでも——

「全くしんどくなくて、毎日がほんまに楽しいんです。朝がどんなに早くても、どんなに忙しくても、全く苦しくなくなりました。血便もでませんよ!(笑)でもね、あの頃の経験があったからこそ、今の生活がありがたいって思えるんやと思うんです。」


職場だけではなく、日常の何気ないことにも喜びを感じられるようになった。

「昔は、お醤油を買いに7時間かけてアジアンスーパーまで車を走らせてたけど、今じゃ身近に日系スーパーがあって。いつでもお醤油も買えるし。ししとうとか、日本のきのこまである!ホンマ、毎日が幸せです。」


■ 次なる夢は「古き良き会社」への成長


お店は、予想をはるかに超える忙しさに包まれていた。
最初は夫婦2人でのんびりとやっていくつもりだったという。


「おかげさまで沢山のお客様に来ていただいて、社員の数も増えました。最初は僕たち夫婦2人だけでやって行こうと思ってたんですけど、予想以上に忙しくさせてもらえるようになって。でも、忙しくなったからといってサービスの質が落ちるのは絶対に嫌だったんです。だから、思い切って社員を雇うことに決めました。ご縁があって来てくれたのは、なんと全員日本人で。しかも、僕の昔からの友人ばかりなんですよ。」

今、だいさん夫婦の周りには“好きな人たち”と“好きな仕事”があり、
それを“好きな場所”で実現している。

「こんな幸せでいいんかな、って思うときもあるくらいです。忙しいけど、ホンマに毎日が楽しいです。」

そして、彼らが目指す次なる目標とはー。


返ってきたのは、愛情あふれる言葉だった。

「僕の次の目標は、『社員旅行を毎年できる会社にすること』です。小さな目標かもしれないですけど、これが僕の次なる夢です。今の時代って、会社全体での交流ってどんどん減ってきてると思うんですよ。
僕は、“古き良き“あたたかい会社を目指したい。僕のコーヒー屋で働く人たちは、みんな幸せであってほしい。それが、僕の願いです。」


■諦める勇気と新たな出会い


「10年は踏ん張る。自分との約束を守りたい。」

だいさんの熱い生き方とあいさんの献身的な愛が、2人をここまで導いた。

自らあえて苦しい道を選び、今日まで歩んできた——。

その姿に、心を打たれずにはいられない。

「楽がしたい。楽しいことだらけの人生がいい。」

「苦労したくない。嫌なことが起きてほしくない。」

この地球には、80億を超える人々が暮らしており、日本だけでも1億2千万人を超える人がいる。


そんな世界で生きる私たちの多くが、きっとそんなふうに思っている。

けれど、夢を叶えるためには努力が必要だ。

そして、努力を続けるためには忍耐力も必要である。

ここで言う忍耐とは、気合いだけで乗り切るような一夜漬けのことではない。
夢に向かう強い意志、芯の太さ、努力を続けるための心の力。
言い換えれば、“心の幹の太さ”である。


夢に向かって育っていく木の幹が、どれほど太く、しっかりしているか。
それが、努力を継続できる人間かどうかを決めるのではないだろうか。

とはいえ、私たちは人間であり、限界がある。
「お寿司を300貫食べろ」と言われても無理だし、
「1年間、寝ずに働き続けろ」と言われてもできない。


こんなことを強いられ続けると、心がぽっきり折れてしまう。

だからこそ、“諦める”という選択も時には必要だ。

諦めずに続けることが美徳とされがちだが、
それがすべてではない。

“諦める”とは、“新たな何かと出会う”ための選択でもある。
一歩踏み出す、勇気あるスタートなのだ。

だいさん夫婦が歩んできたように。


最後に、私はあいさんに質問を投げかけた。

「あいさんは、だいさんの行動力や夢に向かう姿勢をどう思いますか?」

彼女はにこやかに、こう答えた。

「この波に乗るって決めたから、乗る!この人に着いていくって決めたから、着いていく!
昔も今も、ずっとそんな感じです。信じてるから。」

息子と遊ぶだいさんを、微笑みながら見つめるあいさん。
その優しい横顔は、とても美しかった。

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