「カタツムリの歌」Ghaku Okazaki


「They say」というこのメディアのタイトルは、素晴らしいと思う。男性、女性の分類に当てはまらない、あるいは当てはまることを拒否する新しい人称代名詞の「They」。それは新しいぼくらでもある。


そしてぼくらは、ぼくらの新しい言葉を語る。それは新しい歌だ。誰かを傷つけることでなく、ぼくらがぼくらであることを謳歌する歌であってほしい。

ぼくは10代でレゲエミュージックとの衝撃的な出会いを果たし、それ以来レゲエやそこから生まれたヒップホップ、また影響を及ぼしあうジャズやブルース、アフロビートなどに多大に感化されている。ボブ・マーリーが「Redemption Songs」(自由の歌)と呼んだように、それは十代のぼくの心をあっという間に捉え、とてつもない熱量と魅力でぼくの心を一気にかっさらった。


さて、レゲエやヒップホップを聴かない人もこのコラムを読んでいるかもしれないので少し説明すると、それらは開放の音楽であると同時に、反骨の音楽でもある。時としてそれは攻撃的なリズムと言葉を伴う。これまたボブ・マーリーが名曲「Trenchtown Rock」の冒頭で、「One good thing about music, when it hits you feel no pain」(音楽のいいところさ、そいつで撃たれたって痛みは感じない)と歌っているが、時としてレゲエやヒップホップの攻撃性はあらぬ方向に飛び火する。


その代表的なものとして、同性愛嫌悪がある。その背景には、レゲエの思想的背後にあるラスタファリズムがキリスト教から派生しており、しばしば聖書の原理的解釈が伴っている、ヒップホップも詩的な面でそのラスタファリズムやイスラム思想からの多大な影響がある、ウンヌンの事情があったりする。しかしもっとシンプルにいって、反人種差別を歌い力強く団結(Unity)を歌い上げるあまり、攻撃性を強調し、あらぬ「敵」を作ってしまった面があるのではないか、とぼくは見る。


自分の大好きな音楽にそんな一面があるのは悲しいことだが、もちろんそういう表現が歌詞に見られる部分を賞賛する気は全くない。今の時代のレゲエやヒップホップのミュージシャンは、言葉の扱いにより自覚を持ってくれていることを願う。心地よく団結(Unite)したいなら、I & I*やTheyで気持ちよく踊りたいもの。


*ラスタファリズムには言霊思想があり、「アイ」という響きが縁起のいいものとされる。I & IはWe=わたしたち、を縁起よくいい換えたもの。


さて、前置きが長くなったが、今回じつは音楽の話がしたいわけではない。ぼくのある大切な友達の話をしたい。


ぼくは今ドイツで美術家をしているのだが、仕事柄オルタナティヴな考えを持った人、カウンターカルチャーに身を投じている人との出会いが多い。中には尖った人や個性むき出しの人も多い。しかしルクセンブルク出身のルアンくんはそんな中でかえって異色の、パンク色ゼロ、自転車と登山が大好きな好青年だ。


ぼくらはブレーメン芸大で同窓生として知り合った。身長170cm弱、ドイツでは比較的小柄な彼は、とても人懐っこく裏表のない人だ。話が乗ると1時間もぶっ通しで喋るほどのおしゃべりで、それでいて全然退屈も疲れも感じさせない。しかし人徳の塊のような彼には、定期的に強い痛みと戦わなければならない事情がある。


彼は10週間に1度ホルモン注射を受けなければならないのだ。これには彼曰く、毎回激痛が伴うらしい。


ぼくが彼のトランスアイデンティティについて知ったのは、学生時代一緒にベルリンに研修旅行に行った時である。同じ宿のドミトリー部屋に泊まったぼくらは、受付でまず身分証明書を見せなければならなかった。


当時まだ正式に改名の手続きが済んでいなかったルアンくんの証明書には、彼の出生名である女性の名前が載っていた。そこで若い受付の人が、こういった。


「あれ、きみってもしかして、トランスジェンダーなの?」


ぼくはその時はまだその事実を知らなかったので、少し驚いたとともに、「いやこの人鋭いな、しかし初めてあった人にそこまで踏み込むのもなかなか。いったいどういう意図で彼は聞いているんだろう?」と思った。そして次の言葉をルアンくんの隣で待った。


「名前、あえて変えてないんだとしたら、そのままでアイデンティティを表してるってこと?だとしたら尊敬するよ!ぼくゲイなんだけど、ずっといろいろ言われて育ってきたから、わかるよ。きっときみはすごく、強い人なんだね。」

ぼくが彼の意外な言葉に拍子抜けしていると、横のルアンくんは持ち前のおしゃべりを発揮して彼と大盛り上がり。最終的に受付の彼が涙ながらに人生相談をする展開になり、ぼくの証明書は小一時間後にやっとチェックされたのだった。


その夜ルアンくんは、ぼくにも改めて少し手術の話を説明し、胸を摘出した手術跡を見せてくれた。もちろんそれは悪いことでもなんでもない。それでも彼には、きっとそれまでの人生で何度もそれについて聞かれることがあっただろうし、嫌な思いだってしていないとは思えない。ぼくはその日彼のオープンさに心を動かされ、それから彼はぼくのとても大切な友達になった。


ある日ルアンくんの家でカレーを食べて、のんびり音楽を聴きたいな、という雰囲気になったとき。ぼくは大好きなレゲエをかけたくなったけど、少し選曲に気を使った。彼はバイセクシャルでもあり、当時男性のパートナーがいたからだ。同性愛嫌悪を歌う曲をうっかりかけたら、どんな気持ちがするだろう?と思って。


ぼくらは戦わなければならないとき、なぜ仲間の中にも異分子を見つけ、排除しようとするのだろう?ぼくだって決して他人のことを批判できた立場ではない。ドイツに来たものの美術の活動がにっちもさっちも行かなくてもがいていたとき、アイツはダメだ、コイツはダメだ、と他人を批判してばかりいたっけ。みんなぼくの同士のはずなのに。


それはとても卑近な例だし、個人的なもがきなんてちっぽけで引き合いに出せるものではないけれど、どんな場合も他人を批判することは最後は決して気持ちの良いものではない。そんな批判の感情が、人種や宗教、国籍や性別などの違いと結びつくとき。あるいはそれらの、アイデンティティと呼ばれることを、誰かの人格と結びつけて批判の糸口にしようとするとき。そこには白と黒が別れて、ひょっとすると誰かをやっつけた気持ちになったり、自分たち批判する側の結びつきが強まったように錯覚するかもしれない。けれど、団結のために別のグループを作り上げて排除するなら、それはぼくらが本当にひとつになることだといえるんだろうか?


ルアンくんは絵描きであり、アニメーターでもある。彼はとても優しくてどこか寂しげな画風で、静かなストーリーテリングを得意とする優れた美術家だ。ある日彼は展示会で、ある絵を展示していた。それはプールの脱衣所を描いた三部作で、パッと見るとなんの変哲も無い静かな風景だ。しかしよく見ると、真ん中の絵の髭面の男性が、女性器を持つトランスの人物であることに気づく。右の絵の人物は、腰にタオルを巻いている。一番左の絵には、奇妙なことにその脱衣所の机の上に小さなカタツムリが描かれている。


ぼくはルアンくんに問うた。


「ルアン、一番左の絵にカタツムリがいるね。」

「うん、いるよ。」

「どうして?」


「岳、知ってる?カタツムリって、性別がないんだよ。


カタツムリは、一匹が男性にも女性にもなれるんだ。二匹揃ってビビッと来ちゃったら、相手がどんな性別かーなんて気にすることなく愛し合えるわけ。


それってぼく、なんかかっこいいと思うんだ!(Das finde ich irgendwie cool!)」


ぼくはルアンくんが、いつものきらきら光る目で、カタツムリを「なんかかっこいい」と称賛したあの日を忘れられない。ぼくらがプールの脱衣所で女性器を持った男性に会っても、別にきっと不思議なことじゃないんだ。見た目が男で名前が女の人にあったら、あのベルリンのホテルの受付くんみたいに、熱い想いを語り合ってもいいかもしれない。(ただしもちろん、相手がルアンくんのようにオープンなおしゃべりさんだったらの話だけど。)


ぼくはおしゃべりのルアンくんとは、今まで本当にたくさん話した。これからもたくさん笑って、たくさん話すだろう。つい先週もルクセンブルクと南ドイツでビデオ通話したり。もちろんいつもジェンダー云々の話にはならない。お互いの近況だったり、最近登った山の話をする。ぼくも名前の通り山が大好きだから。あと恋愛の相談もしょっちゅう聞いてもらっている。彼はめちゃくちゃモテるんだ。


ぼくは、彼のような深い理由で小さなカタツムリをクールだと思い、そのいのちのあり方への敬意に満ちた眼差しで、絵に描いたなんて人を他に知らない。また、カタツムリを描いただけで人の心を動かす物語を紡げるルアンくんを、ひそかに尊敬している。
彼の描いたカタツムリの歌は、ぼくの心を撃ち抜いて、誰も傷つけることなくメッセージを伝えた。きっとレゲエの神様ボブ・マーリーも、あの絵を見たらにっこり笑うんじゃないかな。


ルアン・ランベルティ「無題」(2018)キャンバスに油彩とアクリル、100 x 70 cm
©︎Luan Lamberty http://luanlamberty.com

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