「きっとずっとたぶんおそらく」中川昌利


どうしてCDはなくならないのか。


世の中にはわからないことが沢山ある。最近その一つに加わってしまった音楽界の大命題。むしろ音楽を作る側の人こそ、聞こえないところで言っている。CDを出す意味がわからない、売れない。


聞く人も配信で聞けるものをなんで買うのかみたいな議論(にもなっていない)が10年以上続いて、もう5周くらいしてる。
こういうCD自虐ミュージシャンプロモーションみたいなのも何回も擦られていてもういい、という気もしている。全然時代に適ってはいないけど、ちょっとだけCDにもいいところもあるよね。で締めるテキストを見て同情したくなったり憐れみに近い感情を抱くのも、もういい、楽になりなよと思う。


僕も8月3日にCDをリリースした。「天使達、」というEP。1stだ。配信でも聞けるものをCDで出す。CDという、現代において他の追随を許さない無用の円盤、CD音源を作った人間の理由を多角的でなく僕だけの視点で書いていこうと思う。


そもそも、中川昌利の家にはCDはあまりない。多分あるのはミスチル、スミス、レッチリ、プリンス、そして友達のバンドのCD-Rくらいだったりする。大量にあったけど引越しの際に手放したわけでもなく、最初からない。


子供の頃、音楽ソフトにお金を払う意味が全くわからなかった。ゲームみたいに遊べないのに、聞くだけなのになんでこぞってみんなCDを買うのだろうと思っていた。何百万枚のセールスとか、何百万人もの人達はなにをやっているのだろうと思っていた。ある人には黄金で、ある人にはゴミ、そういうものであると知るのはそれから20年程経ってからになる。


実家にあったのは親が買った小田和正の「ラブストーリーは突然に」の
8cmシングル 、サザンのベスト、米米クラブの白いアルバム。90年代初期のJPOP。まさにJPOP、CD文化の花開くその薄明の時期の作品達だった。無論僕にとっては聴くためのものでなく、モンスターファーム(プレステのゲームソフト、音楽CDをロードさせランダムでモンスターを誕生させる)でどのモンスターが出るか、だけが問題だった。


そんな少年が自分の意志で音楽CDを手にした時、覚えている範囲では、小学生の頃だったと思う。なんかみんな、いわゆるクラスカーストの上の方っぽい人達が急に大人になったのかマセたのか、音楽を聴き始めた。それらは恋を覚え始めた時期と重なるかもしれない。
クラスの女子たちがヒットチャートの話をし始め、それに釣られて足の速い男の子達から順に音楽を聴き始めた。足も速くなかったし、自転車にも乗れなかったし、ゲームに夢中な僕は例の如く乗り遅れた。


はじめてCDショップ、というよりはCDレンタルショップに行って手に取ったのはKinKi Kidsの「全部抱きしめて」だった。8cmシングル。
「キ」の棚の一番前で剛と光一がこっちを見て微笑んでいた光景が焼きついている。
パカっと開けてプレイヤーに入れたら、「キュッ、シューー…ヒーー、シュン」って音がして当時の最先端の薄緑色の液晶画面に「02.09:45」て表示がでた気がする。イメージ。


再生ボタンを押したら音楽が始まって、そして無音になった。そしてまた音楽が始まって無音になる。そしてCDは回転を止めて、「02.09:45」(イメージ)という表示に戻った。
ただそれだけである。
なんか、「ふーーん、」みたいな感情になった覚えがある。
その「ふーーん」には、こんなもんか、これにみんな価値を見出しているんだ、という疑問と、ならこの魅力はなんなんだろうという好奇心。そこに、まあおもろいと思わなくはないかな、という期待もほんのり混じっていた。


何回かリピートしたら、ジャケットの微笑んでいた剛と光一のイメージとは、少しだけ違う印象も持った。恐らく少し眉を顰めたり、もしかしたらちょっと空元気だったり、ニコニコしているようには聞こえなかった。
音楽は音だけになる時、少し暗くなる。漫画ではなく小説を読んでいる時に似た気分だった。


しばらくして少年は中学生になった。友人の中には当時の海外ドラマを見て、スラングを真似し出して、所謂アメリカに被れていく人もいた。
骸骨のロゴのtシャツ(今に思えばあれはRANCID Ⅴのジャケットだった)を着てマラソン大会に出ている子がいた。その子は不良の中でも知性に溢れ、一目置かれていた。ゲームのコントローラーを置き、アコギでゆずを弾き散らしていた少年に、彼はCDを貸してくれた。


その透明なプラスチックのケースはズッタズタになって白く靄がかかっていた。青いプールの中で赤ちゃんが泳いでいる写真が入っていて、赤ちゃんの視線の先には紙幣がぶっ刺さった釣り糸が垂らされていた。英語で色々書いてあるが、当時の英語力では読めない。
蓋を開けたらそれは本体と分離して、ぼやけたおそらく外国の人が三人立っていて、一人がこちらに向けて中指を立てていた。「縁起わるっ」と思った。
CDをプレーヤーに入れ、再生ボタンを押した。聞こえた音は恐ろしいほどうるさくて、ど暗く、いわゆる洋モノ的な犯罪的で危ない音がしたため、すぐに止めた。
そのCDは、今も自分の部屋にある。最初か、最後の借りパク。もはや元々彼のものですらないかもしれないNevermind。一番大切なCD。


僕にとってのCDによる音楽体験はこんな感じで、あり大抵なものだった。


その後は所謂CDレンタルからの録音、リッピング文化を謳歌する。
軽くて、沢山曲が入って、MP3という圧縮された音質の劣化と言われるものも雑踏や電車の騒音の中では特に気にならなかった。
赤いMDにはサム41、青いMDはオアシス、緑色のが井上陽水のベストだった。
神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」の歌詞みたいに、心の中ではTSUTAYAに敬称をつけて頭が上がらない思いだった。そのMDはiPodに、iPhoneになりそしてAirPodsになって、サブスクという無限にも思えるアーカイブの海に沈んでいった。


昨今ではレコード文化が盛り上がっているように見える。LP、いいよね、なんかLP持ってる人も、お洒落でいいよね。みたいなもの、僕は割と冷ややかな目で見ていたが、ようやく最近わかるようになった。300円くらいのLPを買い漁っている。現存する録音物の聴き方として一番豊かな気がする。僕だって作りたい。しかし中川昌利の芥子粒程の予算はそれを許さなかった。


音楽を鑑賞するという行為は、時々敬虔で、ただの"だらけ"にも思えて、時に極めて道具的だ。どこで聞くのか、誰と聞くのか、ナニで聞くのか、そして勿論、何を聞くのか。それらの全てが音楽体験を作る。


毎週サブスクアプリで更新されるプレイリストの中で聞く曲、一旦アーティストのページまで飛んでオリジナルアルバムの中で聞く同じ曲、レコードに自分で針を落として聞くその曲。全ての体験が違うのは当たり前で、全てが体験として等価値であるようにも思う。どのフォーマットが一番フィットするかは楽曲にもよる。ジャスティン・ビーバーをLPで聞きたいと思ったことはないけど、かぐや姫はLPで聞きたいと思う。だけど古着屋で、雑にマックブックエアーから神田川が流れたら良いかもしれない。
そのぐらい音楽は神経質だ。


僕がCDを作ろうと思ったきっかけ、素直に答えるなら人に提案されたから、という他ない。
それがなかったら「天使達、」というCD、作品すら誕生しなかった。
僕はこう見えて(どう見えているかは分からない)意味のなさそうなことをするのが好きじゃない。このシチュエーションでCDを作ることは意味があるように思えなかった。はじめに言ったように配信で聞けるものをCDにする必要は、何か特別な事情がない限りないように思う。しかしCDを作ることが音楽作品を作る前提になっているような事実も、いまだある。このジレンマをたくさんのミュージシャンが抱えているように思う。


持ち前の痛さでやってみようとなって、デモから選曲し、アレンジを施して録音した。
こんな大変なことやらなきゃよかったと後悔し始めた頃、ある事実に気づいた。
それは、この「天使達、」というEPはサブスクでもなく、LPでもなく、CDで聴くことを前提に作っている、という事実だった。
90年代の飽和したLR、異常なドンシャリ、2サビのあとに入る役割のよくわからないcメロ、2小節前にはもう分かる転調など。意識せず、自然にこの曲達にはいつか僕がTSUTAYA(敬称略)で借りたCD音源と同じ質感を持たせていた。


この曲達にはズタズタになったジュエルケース、なんかよくわからん毛が挟まっているブックレット、誰が読むのかわからない長いクレジットが必要だった。
サブスクの方が速いかもしれない、LPの音のほうが温くって僕の声もギターも馴染むかもしれない。しかし、これらの楽曲が一番濾過されず、聞く人の耳に届くフォーマットは間違いなくCDという無用の円盤だった。


僕はCDを作った。もしかしたら最後になるかもしれないと思いながら作り始めて、もう無理だなと思って作り終えた。本当にこれっぽっちも売れなかったら、、、考えるのはよそうと思う。
CDというメディアにできる全ての工程に愛と工夫を注いだ。しかしあくまでもCDあるあるや同人にはならず、2022年のCD音源になるように。未来を作るCD作品になるように。ここでは言えない、「秘密」のCD演出もやってみたりしてるけど、今となっては恥ずかしい。〆切は救いの手にも、残酷なラストにも思えた。


CDを買わない理由は山ほどあるのに、CDを買う理由はこれっぽっちだ。ブックレット、特典、あとなんか応援の意味。全て尊く、どれも時代の風の前に消え入りそうな理由達。


それでもレコードに続き、次に新しい音楽の文化を作るのメディアはCDであると信じている。Z世代よりも若い人たちはじきに、それらを掘り起こし、学び、音楽を、消費を更新していくのだろうと思う。CDライクな冷たいサウンド、くっきりはっきり分離した楽器のアンサンブル、いつだって周期は信じ難いほど正しく到来して、一周目を知る人を驚かす。なので僕は一足先にその一端、端っこの裾をつまんで先輩面しようと思う。


2021年、CDの生産量が下降以降、17年ぶりに上昇したという話があるらしい。LPの工場の生産が追いついてないとか、人気アーティストのリリースが続いただけ、とかいろんな要因が絡んでいるらしい。リバイバルなんて思うには急ぎ過ぎてるが、17年起こらなかったことは確かに起こった。


CDはなくならない。こんなにいらないのになくならないのだから、なくならないだろう。


きっとずっとたぶんおそらく。

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