「冬はずっと似合わない」中川昌利


12月、街は慌ただしくなっていく。
ある瞬間を境に「冬的なナニか」が充満していく。
道ゆく人々は自分の体と心を守るように分厚い服を着込んで、ほんの少しだけ急いでいる。
冬、人の歩く平均速度は夏と比べて上がるという、ある大学の論文が発表されるのも時間の問題かと思う。


割と長めにとったはずの袖、そこからはみ出してしまった指は着実に冷たくなっていって、落ち着く場所を探して、渋々ポケットに入れる。缶コーヒーは、あったか〜いで買ったはずなのに、飲む頃にはつめた〜いに変わっている。指に、その熱は移ってまた直ぐにどこかに行ってしまう。違うあったか〜いを常に探しながら歩くけど、別に見当たらない。
いつものように用事はないのに喫茶店に入って、0.3秒くらいで席を確認して人差し指を一本上げる。
「(一人っす)。」

ってマスク越しでは聞こえないであろう声を、儀礼上、一応、発して店員さんの掌の方に歩いて行く。席に赴きながら確認する利用客のシルエットはもこもこで丸く、この時期だと悟るには充分すぎる。


イヤホンから流れる音楽は自然と小沢健二のセカンドアルバム「LIFE」になる(冬に聞くものと思っている)。
相変わらず、あっけらかんと、軽はずみなようで、乾いてささくれた心の隙間に入り込んでくる。底抜けに明るいようで、深い暗黒の中を二人で歩くようなアルバム。
高校生の時はコーネリアスしかわからなかった。大学生の時にフリッパーズがわかって、はじめて付き合った恋人とお別れした時にオザケンがわかった。


発売された当時、僕にとってオザケンはカローラの人。友達の家に貼ってあったポスターの中の小沢健二は、ファインダー越しにぼやけ、にやけながらこっちを見ていた。友達の歳の離れたお姉ちゃんはファンクラブに入っていて、団扇のオザケン、雑誌のオザケン、なんかキーホルダーのオザケン、達がコタツを取り囲んでいた。
「姉ちゃん、こいつのことめちゃくちゃ好きでさ、ライブ全部行ってグッズ沢山買ってくんだよね。」
「へーそうなんだ。」


それから20年以上、オザケンを思い出すことはなかった。その頃の僕は「LIFE」など知らず、冬になると聞かなければならない音楽があった。


中川昌利という人が初めて音楽というものに触れたのは4歳か5歳くらいだった。アコーディオンという楽器を習いごとの一つとして始めたのがきっかけだった。
蛇腹に鍵盤がついていて、オルガンのような、ハーモニカのような音が出る。左手と右手で蛇腹を伸ばしたり縮ませたりして空気を送り込み、押している鍵盤の音が出る。左手側には無数のボタンが列を組んでおり、それぞれにコードのベース音が割り当てられている。
横森良造、coba、桑山哲也、名前を聞いたことがある人もいるかもしれない日本のアコーディオン奏者、敬称略。


毎月5000円の月謝を払って、毎週末に一時間くらいのレッスンを受けた。苦痛、まではいかずとも、普通に家でゲームしててぇな、が勝つくらいのテンションで習っていた。レッスンの帰りに親がゲームを買ってくれることがあり、まんまと釣られていた。
当時、音楽が好きだと思ったことは一切なく、最早なんでアコーディオンなのかと思っていた。どうしてピアノ、ギターじゃなかったのか。ベース、ドラムでもない。逆張りですらないところに張りたがる癖はこの時に身に付いたのかもしれない。

ならば何故始めたのかと言うと、アマチュアのベース奏者であった父親が「君が本当に孤独になった時、音楽だけは親友でいてくれる」とのことで始めたものだった。
今に思えば、説得力があるとも思うし、孤独にさせるのも音楽であるなと思う。
年端も行かない中川少年には勿論その言葉の意味は理解出来ず、しかし容易く踏み入れない父親のウエットな部分を感じ、子供ながらに詮索は出来なかった。


毎年、冬には発表会があった。教室が加盟するアコーディオン協会なるものが中野サンプラザ、なかのZEROというホールを借りて、そこで生徒たちが一年間練習した成果を披露するものだった。
冬の中野は寒く、駐車場からホールまでの短い道のりでも、アコーディオンの革のケースは冷たくギチギチに硬くなり、軽い人くらいの重さがあって(体感)肩に食い込んだ。
その日だけ、サスペンダーをパチンとつけられ、チクチクする生地のズボンやブレザーを着せられ、散髪に行かされて前髪を一文字にして演奏した。

ヨーロッパに流れるドナウという川の曲や、トルコ行進曲など、知ってる曲も知らない曲も、「シャンソン」に編曲されたものを演奏した。「シャンソン」という音楽を人生で一番聞いた時期。未だに踏み込めていない「シャンソン」という領域に、僕は小さい頃に意図せずとも存在した。ポツンと。
とはいえ定義も分からず(今でも)、ショートカットの綺麗におめかししたご婦人が渾々と歌い綴る、その程度の認識でそれらを演奏していた。


ガラガラのホールに、親達は人の顔の大きさくらいあるビデオカメラを持って、子供の演奏を撮影していた。合奏や独奏など、毎年2、3曲。教室のごくごく少ない生徒達は世代で括られてライバル関係を築かされ、出来を競わされた。勝敗は、親たちの間だけに存在した。


発表会での演奏はいつも一瞬で終わった。ライブというものをはじめて体験したのもこの時かもしれない。一発勝負の悲喜、集中、緊張。アドレナリンがドバドバ出るのを感じた。あまり演奏は間違えなかったが、楽譜を忘れたり会場への入り時間を間違えたりした。


冬になるたび、発表会のことを思い出す。ちゃんと演奏出来るだろうか、駐車場に空きはあるかと。
中野の街路樹はみな葉が落ち、ハゲ上がって、街は少し暗く、ビルの肌は白っ茶けていた。ベローチェのスイートポテトがまだ紫色に輝いていた頃、親の整髪料の匂いがローレルの車内に充満し、吐きそうになる。
プレゼントを買ってもらう前には必ず発表会があり、それを超えなければスーパードンキーコング2はもたらされなかった。

今でも楽譜を忘れる夢を、駐車場がいっぱいでものすごい遠いところから会場まで歩く夢を見て、目が覚めると、
今度のライブはちゃんと演奏出来るだろか、忘れ物をしないだろうか、と心配する。基本的な悩みの構造は、今もその頃も変わっていない。


中学校に入った頃、アコーディオンを辞めた。
8年程の間、楽しいと思ったことはなかったが、やると人が褒めてくれた。


辞めたきっかけは、母親の死だった。
それは、根こそぎ、必死に耕し大切に作り上げた林檎やらオレンジやらアメリカンチェリーやらが生い茂る果樹園を、まっさらな更地にするような激烈さを持って僕の人生を変えた。


物心がついた時には既に大病を患っていた母は、度々入院していた。10年程闘病し、最後の入院は永遠な程ながかった。彼女の不在は、家からルールや理想や方向性を奪っていった。父親に責任があるわけもなく、否が応でも従わなければならない、運命の力を感じた。どうしようもなかった。

暮らしはむしろ所謂一般的な、俗っぽく、ある意味で健全な家になったとも言えるかもしれない。重力に逆らわずに下流へ(例えとして)、ゆったりと大きくなり、澱み濁っていく川のようにただ流されていった。
父親は入院している母親を看るので手一杯になった。アコーディオンを練習をする時間は徐々にバラエティ番組やプレステ、そして個人経営の塾に侵食されていった。

その間、父は僕にアコーディオンの練習を強いることはなく、兄弟もいない一人息子を家で寂しくさせまいと、レンタルビデオ屋で沢山のアニメを借りてきてくれた。
それは80年代から90年代初頭のアニメだった。知らないはずの時代へのノスタルジー。歯の浮くようなセリフ。ポケモンショック以前の光の演出。劣化してぼやけた作画。現実では、僕の孤独と共にあったのはアニメであり、オープニング、エンディングを飾る一分半の音楽だった。明後日まで続きそうなリバーヴも、サビの最後に結ぶように歌うタイトルも予定調和というには美しすぎて、今でも懐かしく輝いている。多分この先ずっと消えない光、のひとつ。


母不在の食卓で、父親とアコーディオンを続けるかどうか話をした。アコーディオンなんて、音楽なんて、やって意味があるのか、目の前の生活の話、近い未来にいなくなってしまう母親と出来るだけ多く時間を共にするべきなんじゃないか。そんなことを話したと思う。

不要不急、という言葉の流行る二十年程前、僕は僕の口から、そのような意味合いの言葉をそっくりそのまま喋っていた。

10分程で話は終わり、その場で辞める旨を電話で教室に伝えた。


音楽の意味、価値、なぜ。
至上命題のように横たわるそれらの問題と、僕は一度向き合って、簡単に捨てた。


災禍、貧困、体調不良、それらを目の前にした時にあっさり、真っ先に切られてしまう音楽、芸術、芸能。僕は、割と異論はない。
大切な人が本当に困っている時に最初に渡すもの、それは多分音楽じゃない。寂しいけれど、異論はない。
異論などあるはずがない。僕は実際に、あっさり捨てたことがあるのだから。


音楽とは、一音目だと思う。始まる、始まったその瞬間。一音目が鳴って、二音目が鳴るまでの間。
音楽が街に流れる時、音楽を鳴らす時、音楽だ、と脳が判断するその瞬間。その刹那。


それは例えば、なんか木の匂いがする、ちょっと雲の動きが速い気がする、前にも見た足の白い猫が顔を覗かせる、そんな瞬間に似ている。そんな時、音楽は世界に生まれる。
ちょっと、大丈夫かもしれない。
もうそろそろ、いけるかもしれない。
そんな時に音楽は聞こえる。


その一音目が聞こえる、たったそれだけのために音楽はある。
音楽がある世界は、たぶん大丈夫。聞こえたら、もうきっとすぐに大丈夫になる。そう思った時には、もう大丈夫なんだ。


そう思いたくて、音楽を聞くのかもしれない。そう知らせたくて、音楽をやるのかもしれない。


母親が亡くなった数ヶ月後。12月の僕の誕生日に、父は安いアコースティックギターを買ってくれた。
島村楽器、ペラペラのケースとストラップの付いた2万円の初心者用ギター。ゆずのスコアと硬いピックと一緒に。
帰り道、アディダスの手袋で担いだアコギは嘘みたいに軽くって、何も入ってないみたいだった。沢山の詩とコードとメロディを詰めるための空っぽ。結果的に、ボディのど真ん中にあいたそのサウンドホールに、沢山詰め込むことになる。

ふと予期せずに僕の元にまた、その一音目はやってきて、今でも途切れないよう次の音を連ねていく。別にいつ途切れてもいい、また始めればいいだけの一音を、連ねていく。
そこに価値があるのか、よくわからないし、なくていい。音楽が鳴っているという現実が必要だと思っている。


空っぽのアコギがすれ違う人たちのシルエットは、みんなもこもこと丸かった。バーバリーのマフラーが流行り始めた頃の12月。
「冬的なナニか」で充ち始める、そんな日のことだった。

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