「愛は社会を変え、法律を越える」映画「少年の君」評 byダースレイダー


愛というものを表現するためにはなにをしたら良いか?
完全に自分を投げ出すこと。
そして相手が投げ出したものを全身で受け止めること。

そこにはいささかの疑いもなく、真っ直ぐに行われた時、
そこには愛というしかない感情の働きが起こり、
それは観ているものにも確実に伝わってくる。
愛は社会を越え、法律を越える。
その人のためなら、この人と一緒なら、
愛は人間の理性が拵えた様々な虚構を無きものとして振る舞うための力とも言える。

現在の中国において表現活動を行うとき、
想像される様々な人間によって拵えられた制約はそれこそが愛を表現するための格好の素材となり得る。一瞬で良い。一瞬でも乗り越えることが出来るならば・・・
物語の舞台は重慶。
建ち並ぶ高層ビル、中層ビル、低層ビル、延々と下へ降りていく階段、入り組んだ路地、暗い工場の横。
全てが重圧として伸し掛かってくる。
そこを抜け出したいなら戦え。全身全能で自分だけでも勝ち残れ。

周りは全てライバルで敵だ。気を抜くな、机にむかえ。教師たちの怒鳴り声、机に山積みされた資料、一心不乱に学生たちはその山をかき分けながらノートに書きつけていく。

重圧を抜けたその先に続く道をペンで作るかのように。中国における大学受験にあたる「高考」は壮絶の一言に尽きる。全国の学生の中から選り抜きの精鋭がテストを通過し、その先のシステムでまた上昇していく道を探り、その先にまた・・・10億人の社会構造を形成する競争社会は規模も内容も桁違いの戦場だ。科挙の伝統を持つ中国の人材育成システムは優秀な人をどんどん研ぎ澄ましていくが、その時には心もまた削がれていく。だが躊躇してはいけない。弱みを見せたら戦場では文字通り命取りだ。

全ての学生がスマホを標準装備している現在の中国ではSNSが人々の心、いやむしろ心のなさを鏡のように映し出し、それが乱反射していく。戦場はいじめの温床だった。それでもここを抜け出す道は一つしかない。
上を目指すしかないのだ。

成績優秀なチェン・ニェンの家庭環境はそんな社会の最下層に近い。
それでも抜け出す可能性を彼女は手にしていた。テストさえ受かれば。
ひたすら上を目指すだけの彼女が出会うはずもない不良少年、シャオベイを路上の喧嘩から救おうとしたことから物語は始まる。シャオベイはアウトローで社会の周縁で蠢いている。高層ビルの上を目指す道はとっくに断たれ、仲間達と日々小さな悪事を重ねていくしか無いと思い込んでいる。
そんな二人はチェン・ニェンに降りかかる醜悪ないじめによりどんどんと距離を縮めていく。

チェン・ニェンは初めて戦場から逃避する場所を得た。
そしてシャオベイは自分には閉ざされている上への道を目指す人と出会えた。彼は自分に出来ないことに挑戦しているチェン・ニェンの守護神となることを決意し、彼女の後ろを歩いて見守るようになる。
二人の人生が交差することで気づきが生まれる。

自分たちがこうだと思い込んでいた社会には外側があることを。
「どこか行こうよ」
このセリフは二人の間に愛が生まれ、それが社会を越える眼差しを与えたことの象徴だ。
そして、このあと二人は法律を超えていく。愛のために全身を投げ出す行為として。

中国映画としてこのテーマを描いている作品なので、映画の冒頭と最後には「ちゃんとした」メッセージがつき、物語も行政の中に収斂されていく。それでも一瞬の、愛による超越を描いたことにこそ意味がある。「キスしただけだ」と警官に語るシャオベイの眼は社会の外側に広がる光景を、愛の可能性を知っている。

オープニングで大人になったチェン・ニュイは英語で「used to be」の意味を語る。そこには失われたというニュアンスがある。失われた光景、それは二人が確かに一瞬体感したものなのであり、彼女はそれを今も記憶している



公式HP「少年の君」
https://klockworx-asia.com/betterdays/

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