『急に具合が悪くなる』©2026 Cinéfrance Studios - Arte France Cinéma - Office Shirous - Bitters End - Heimatfilm - Tarantula & Gapbusters - Same Player - Soudain JPN Partners

分かり合えなくても、同じ場所にいられる——『急に具合が悪くなる』を話してみる


濱口竜介監督の最新作『急に具合が悪くなる』。

本作を鑑賞した編集部4人で、映画の感想を話してみた。(原作は未読です)

※以下、作品のネタバレを含みます



まずは、第一印象から


T: まず最初の感想は「めちゃくちゃ面白かった」ですね。みんなはどうでしたか?

E: 私は観る環境が悪く…。周りのお客さんが音を立てるので気になってしまいました。

Y:私もちょっと似てるかもです。仕事で色々あった後で、映画の最中にそのことばかり考えてしまうという。

T: 余白がある映画だからね。

Y: そうなんです。だからもう1回観ました。

R: 私は今祖母が認知症で、ちょうど考えている時期だったのでかなり自分事として観ました。介護やケアの話だとも知らなかったのですが。

T: 実は僕の祖父は60代前半の時に若年性アルツハイマーで亡くなったんだよね。子どもの頃は、認知症で死ぬってどういうこと⁉︎って思ってた。

映画で「ユマニチュード」の「見る、話す、触れる、立つ」って4つの要素を聞いて、それらが全部できなくなるからか、と改めて気づきましたね。生きる活力がなくなってしまうのかな。

食べることも、誰かに反応することも、自分に対して働きかけることも、だんだんできなくなっていく。

E: なるほど。

T: でもユマニチュードで「立つ」って言いながら、いや鑑賞者は3時間半立てないでしょ!とは思いました。

一同: (笑)

T:まあまったく長く感じなかったですが。



境界線をなくすことはできるのか


Y: 正直私は理想論と感じた部分があったんですよね。

いくつか「境界線をなくす」というメッセージがあって。認知症の人とそうじゃない人、精神疾患がある人とそうじゃない人、不可能と可能。

「できたらいいけど、本当にできるんだっけ?」と思いました。でも2回目に観たとき、長塚京三さん(清宮吾朗役)が舞台で「勇気」ってアンサーを出してて。「自分の中に眠る、ほんの少しでもいい勇気。それが光になる。そしてその光には勇気が集まる」と。

T: 「みんな分かり合いましょう」「違いを超えましょう」って理想だけ言って終わることなく、むしろわかりやすく答えを見出させるような

R: 私も途中までは「そんなふうに接するのは無理だよな」って思いました。特に祖母のことを思い出すと「相手を人として見て接する」ことですごくすり減ることもあるよなあと。

それに自分だけが丁寧に接していても、周りの全員が同じようにしてくれるとは限らない。誰か一人がやらなかったことで崩れちゃうこともある。

そうすると、やらない人のせいにしたくなったり、私も相手に対して同じようにできなくなったりする。

T: 介護施設で働いていた友達が昔「人間として見ない方が、大切に扱える」って言ってたのを思い出した。

最初は、「いや、それひどくない?」と思ったんだけど。

Y: かなり強い言葉ですよね。

T: でも話を聞いたら、「人間として見たら感情が湧くから」って。腹が立つこともあるし、悲しくなることもある。人として全部受け止めていたら、自分が続かない。だから仕事として割り切って「人間として見ない」ことでむしろ一定のケアができる、という話だったんだよね。

映画で語られる「魂を持った存在として扱う」とは一見逆の話だけど。

Y:そういった現場のリアルはソフィ(ベテラン看護師役)によって描かれていましたね。

Y:「仕事とプライベート」の境界線の話でいうと、マリー自身はそこに境界線を引かない/引けない人ですよね。

T:それがマリーと真理の出会いを導いているっていうのが面白いよね。決して奇跡的な偶然の出会い、とかではなくてマリーが智樹と一緒にいることを選んだことが全ての始まりになっている。



人間が人間を「魂を持った存在」として扱う


T: 印象的な場面はありましたか。

R: 私は映画の中で「ありがとう」が何度も出てくるのが印象的でした。「質問してくれてありがとう」や「話してくれてありがとう」とか。ユマニチュードの場面でも、昔のことを話してくれた相手に「話してくれてありがとう」と言いますよね。

T: あったね。

R: もちろん、すごく当たり前のコミュニケーションなんですけど、それが逆に目新しく見えたんです。

認知症の人を人として扱わない、働いている人間を人として扱わない社会等と繋がるかもしれませんがお互いを人として見て、「ありがとう」と言う。そんな当たり前のことが、今の社会では逆に新しく見えるんだなと思いました。

T: 濱口監督のインタビューで、かなり印象的な話があって。

映画に出てくる演劇の描写については文化人類学者・松嶋健さんの『プシコ ナウティカ ーイタリア精神医療の人類学』を参考にしたとのことで。

単に私たちがそうするのを忘れているというより、社会の構造自体が、それをさせないんじゃないかと。

Y: 介護される側だけじゃなくて、働いている側もということですよね。

T: うん、何層にもあるね。

認知症の人が、人として扱われない。ケアワーカーも1人の人間というより労働力として扱われる。

R: だからこそ「ありがとう」だけでも、関係が少し戻る感じがしたんですよね。

一方的に介護してあげるとか、助けてあげるのではなくて。相手が質問に答えてくれた、昔のことを話してくれた、こちらの呼びかけに応えてくれた。そのこと自体に感謝する。



足裏マッサージで、日本を描く


T: それにしてもこの映画の日本らしさの表現、すごくないですか。インタビューで多緒さんも仰っていたけれど、日本らしさをサムライみたいな"ザ・ジャパン"的なものではなく、足裏マッサージで描くという。

足を人に触ってもらう、足の裏を見せる、みんなで揉み合う。それが、アジア的な身体感覚として入っている。日本らしさの表現として目から鱗でしたね

Y: そういえば美味しい日本食のシーンとか出てこないですね。

T: フランスではインスタントスープとパン、日本ではカップラーメンやレトルト、あと缶ビール。確かに大事な人にしかレトルトって出せない気がするな。

E:カップラーメンのシーンもそうだけど、全体的に夜明けのシーンが印象的だったな。パリでも日本でも2人で夜明けを迎えている。

T:原作をまだ読めていないんだけど、原作者の磯野真穂さんも原作を思い起こさせるシーンとして挙げていたね。「マリー=ルーと真理の関係性が変わっていく会話が夕方や朝方といったあわいの時間にかけて行われること」と。



直立している人だけでは、集団は安定しない


T: 僕がこの映画の核心に近いと思っているのが、「斜めのもたれ合い」という話です。

作家の畠山丑雄さんがコラムにこう書いていて。

T:AとBという「自らの信念のもの自立・直立」している人がいて、お互いが自立しているからこそ不安定。そこにCという「直立しきれない人間」が入ってきた時、元々あった秩序が実はうまい具合に崩れていく。

E:背中合わせになったり、マッサージをし合ったりするシーンは「斜めのもたれあい」だね。

T:誰か1人が中心にいて全員を支えるとかではなくて、みんなが誰かに体重を預け、同時に誰かの体重を受け止めている。

R:みんなで一列になって歩くシーンもありましたね。歩くのが遅い人に合わせる。

Y:1人では歩けなくても、支えがあれば歩けるのかってシンプルに感動しました。



円の中にいるのか、外にいるのか


E:映画の中に「円」が何度も出てくるのも印象的だった。

ホワイトボードでも円を描き、足をマッサージするリクリエーションでもみんながだんだん丸くなっていく。ラストシーンの散骨も何かが循環して、円になる感じがした。

T: ホワイトボードの円でいうと、「実は中心が狭くなっていっている」ことに危機感を持ちましたね。自分たちで墓穴掘って狭くなっているという。自分たちの心も狭くなってるのかなと思いました。

E: あの円を見ながら、自分はどこにいるんだろう、と考えちゃったな。

T:あの丸の中にいたくないよね。ただ世界全体で考えたら、私たちはあの中にいるのかもしれない。

Y:「デモクラシー」の前提に、「資本主義」がある状況も図示されていましたが、まさにこの映画を観ること自体が象徴的な気もしました。政治や社会について考えるとか映画を観るとか、もちろんお金がないと出来ないというわけではないけれど、アクセスのしやすさは全然違いますよね。

T:自分がどの位置にいるのかを想像するのももちろん大切だけど、行き来してしまう人間であると自覚するのも大切な気がするな。

Y:確かに。中心性と周縁性は、1人の人間の中に同居し得ますよね。

T:最終的には猫まで同居するもんね。ホワイトボードに描かれていた丸や三角の、上も下も中も外も行き来していい、寧ろ行き来しないといけないというのが映画のメッセージになるんじゃないかな。



構造の中から変えられるのか


Y:「構造の中からは変えられない」と言いながら、マリー=ルーは構造の中で頑張っている人である、という点も気になりました。

T: そうだね。

Y: 構造の中で頑張れると思いますか?

T: うーん。自分ごと化するなら、僕自身も構造の中で頑張っているつもり。

三角形の上にいる人や円の中心にいる人に盾突きながら、それでも構造の中にいる。行き来できるから盾突けるのかもしれないし、盾突けるから行き来できるのかもしれないね。

僕は行き来できるからこそ、中心にアクセスできない(しない)人にどうやって接するかはめちゃくちゃ大事だと思ってる。



分かり合えなくても、同じ場所にはいられる


T: マリー=ルーとソフィの対話があるけれど、結局2人が完全に分かり合えたのかはわからないまま終わるよね。

でも「ここはお互い踏み込まないようにしよう」とか「ここまでは許そう」みたいな、なんとなくの条約ができた。で最後にはカフェにも来ているし。

Y: あのとき、制服じゃなかったですよね。プライベート寄りの服でした。

T: 2人は友達になったわけじゃない。考え方も同じになっていない。でも、同じ場所にはいられる。

僕自身も最近、意見をぶつけ合うことや全て分かり合うことだけが、正しいとも言えないと思っていて。「お互いの意見を言い合えることが正しい」と言った結果、様々な国はどうなりましたか。ひたすら外に資本を求める国になっちゃったじゃんと。

R: 「俺たちは1つにならないと」と言っている。

T:ぶつかるなら距離を取ればいいし、距離を取れないなら「これに関してはココまで」ってラインを守ればいいと思うんだよね。

Y: ソフィが演劇を施設の中からチラ見するのとか、まさにですね。

T: 知らないフリをする。

最初から「知らん!」ってそっぽ向くのは子供ですから、知っている上で知らないフリをする。それで良きところでハモればいいじゃん、って思うんですけどね。



『急に具合が悪くなる』は、簡単に分かり合うための映画ではなくて、分かり合えない人と、それでも同じ世界にいるための映画だったんじゃないか。


一人で直立するのではなく、ときどき誰かに斜めにもたれる。


円の中と外を行き来しながら、構造の中で自分がいる場所を考える。


相手を自分と同じに変えようとせず、魂を持った存在として扱う。


そして、相手のことをすべて理解しようとしたり、その人の領域に踏み込みすぎたりするのではなく、違うまま、一定の距離を保つこともまた、共にいるための方法なのだと思う。


そういう関係を続けるために必要なのは、正しい答えではなく、少しの勇気なのかもしれない。


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